ゴルフ ハンディキャップ

レッスン

ごまかさず実力通りに

「世界は一つ」 が理想だが

ゴルフは老若男女、身体障害者、 人種の区別もなく、ボールのところまで行って打てる人なら音楽しめる競技。そして、上手も下 手も平等に楽しみ、勝ち負けを争うチャンスを与える、という精神のもとにハンディキャップが決められる。ハンディキャップシステ ムは平等というゴルフの心をささえる柱といってもいい。理想からいえばハンディを通じて世界は一つが望ましいだが、現実は平等からほど遠い点が多く、 反省の余地が大きい。

ゴルフに賭けを持ち出すのがいい悪いは別として、たとえば米国では、一面識もない人と賭けをする例が多いが、日本ではあまり見られない。米国で賭けゴルフが一般化しているのは困ったことだがこの例から推して、ハンディに関する限りは日本よりずっと平等に決められていることがわかる。相手のハンディが共通の物差し〟で現在の実力通りに決められている、という相互信頼があってこそ、はじめて見も知らない人と賭けができるわけである。

余談になるが、米国にはゴルフにもハスラー(賭事師)がいる。「物差しが正確である」、 「現在の実力通りのハンディである」という信頼を悪用して賭けに勝つことを商売にしている異端者といえよう。たとえばハンディ1の実力者が普段は意識的に悪いスコアを続けハンディを落としたお客をカモにする。もっともシンプソンといったほんとに強いハスラーもいる。ラウンドだけの勝負ならプロにも負けない。マイク・スーチャックが初めてシンプソン退治をしたほどの腕前だった。ほとんどのプロが負けた。長期を戦うサーキットゴルファーとラウンドだけの勝負師とは強さが本質的に違う。このように〝信頼できるハンディだからこそ悪用される危険はあるが、それでもやはり平等なハンディがゴルフ本来の心にかなうものなのである。それならどうやってハンディの平等を実現させるか、というと非常にむずかしい。物差しであるコースレートを科学的、合理的に決めることが先決だが、この問題は金と時間がかかり、日本の現状は極めて不完全である。ここではハンディキャップに対する考え方の相違につ いて述べよう。

勝つことが目的ならハンディは多い方がいい。米国あたりではハンディを少なくされることは勝つチャンスが少なくなる意味から、ペナルティーを課されると考える傾向がある。一方、 日本ではハンディをプライドと考えやすく、少なくすることに血まなこのゴルファーが多い。 シングルプレーヤーは肩で風を切る。実力以上に少なくすることで、かけ金を損しても喜んでいる。勝つこと、プライドの満足、どちらの方向に行き過ぎてもハンディは平等という本来の姿を失ってしまう。ハンディの合理化は現在の実力通りのハンディを持とうというゴルファーの正しい心がなくては実現できない。

実際の例だが、Aクラブでハンディ20Bクラブ18Cクラブ16の人が競技に最低の20出場し優勝して大喜びしていた。勝つためには20、プライドは16で満足するという欲張りな人である。1人の人間の現在の実力は1つだけで3通りあるわけはない。この人がフェアであるためには16で出場しなければならないのである。

人間は生き物である以上実力は絶えず変化する。 ハンディもそれに従って上下するのが当然、ハンディも生きているのである。現在のハンディが生きるためには古いハンディは死ななければならない。米国の例だと、ハンディ決定の資料になるスコアカードの提出が少ないその中のベストスコアでハンディを決められてしまう。ペナルティー的な考え方である。そして一定期間提出がないとハンディは消されてしまう。古いハンディは死ぬという考え方である。日本では一度上げたハンディは下げたくないと考える。 ハンディをプライドと結び付けるからであり実力が落ちても通告しなければ古いハンディのままである。だから実力とは別の名誉ハンディが次々にできあがる。米国の ハンディは実力を反映する能率給的、日本は年功序列的であるともいえるのである。 もっともハンディが真の現在の実力を反映せず、賭けが成立しにくい方が、 その点に関する限りゴルフは健全であるともいえようか。

主な関連ルール

*ハンディキャップ

付属規則 ハンディキャップの査定

付属規則 パーの算定を参照

引用

新訂 スコアを縮める秘訣

ゴルフルールの心 金田武明

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