「思いやり」から出発
ルールは各自の判断を信頼する
ゴルフは人間の、あたたかい心の中に住むスポーツでありゴルフのルールはプレーヤー各自の思いやりのある心の中に生き続ける。
時代がどんなに変化してもこの 本質は変わりない。何百万人の人 が反対をとなえてもやはり変わらない。その実例として1968年 のマスターズ・トーナメントで起こった『ピセンゾのスコア誤記事件”をあげてみよう。
ロベルト・デ・ビセンゾ(アルゼンチン)とボブ・ゴールピー (米)が大接戦を演じ、ともに2ホールを終了し277ストローク で首位に並んだ。ところがビセンは71ホール目のスコア、バーディーの3を4としたため総計278となってプレイオフの権利を失い2位となってしまった事件である。
ビセンゾは1954年米国の試合に参加し、世界のいろいろなオープン選手権を取り、1967年は全英オープンで勝った国際的プレーヤー。その上1番好きなコースがマスターズの桧舞台であるオーガスタとあって、当時47歳のベテランにとっては一世一代、最後といっていいチャンスだったわけだ。
ゴールビーは大変なフッカーでありおこりっぽい欠点がある。 オーガスタはフックだけしか打てない人には至難のコースだし、マスターズはカッとしたら勝てないだがこの年のゴールビーは「あんなきれいなボールを打つ彼は見たことがない」といわれるほどの大当たりで、これも一世一代のチャンスだった。 ビセンゾは好調を続け、最終日、問題の74ホール目の17番でもみごとなバーディーを記録した。だが最後のホールの18番で第2打がフックしてボギー。 ゴルビーの圧力に耐えかねて犯したミスといえよう。これでタイになってしまった。スコアを記していたのはトミー・アーロンで、ビセンゾはそのカードにサインしただけだった。しかし、 興奮していたビセンゾは苦心の末獲得した17番のバーディー3を4としたままカードを提出し2位になってしまったわけである。 米国の世論は2つに割れた。両者にとっては一世一代のチャンスだったことを皆知っており、誤記で勝敗を決するにはしのびない、という気持ちだったのである。正論は「誤記だから仕方ない。これが逆に4を3と書いたら失格だから、2位になれたのはまだしもだ」。一方は 「とんでもない。テレビでも何百万人もの人がバーディー3だったことを知っている」とビセンゾに同情した。プロの間からもこの声がもれた。
テレビが発達した現代では、多数の人を証人にしたこの反論は一応正しく強力のように思えるだがやはり正論の勝ちである。ルールによると各ホールのスコアは各プレーヤーだけが責任を持つ。スコアラー、マーカーはアテストしても責任はない(スコアの総計は競技委員の責任である)たとえテレビで何百万人が見ていて事実を証明しても、各ホールの責任はやはりプレーヤーが取る。大体テレビはすべての選手を映すことはしない。またたとえテレビに映っても、そばで人が見ていても、バンカーの砂にソールが触れたといったような、プレーヤー自身にしかわからないケースがゴルフには非常に多い。
プレーヤー自身の判断を捨て他人の判断にまかせた時ゴルフは成立しなくなるだろう。広いコースで他人の判断のもとにプレイするなら多数の審判官が必要になる。審判の目をごまかして見つからなければそれで通る、ということにもなる。その結果、個人の尊厳、人間の相互信頼といった心は消えてしまう。ルールを適用した結果がどんなに冷酷に見えようとも人間の相互信頼を失うよりはましである。
ゴルフ規則を見ると、第1章にエチケットがあり、それに用語の定義、プレイに関する規則が続く。ルールがエチケットから始まるスポーツは他にない。エチケットは他人に迷惑をかけまい、という思いやりの心である。電車の中で傍若無人のゴルフ談義にふけり周囲のひんしゅくを買うようなぶざまな行為は、思いやりの心があればできないはずである。思いやりは人間の尊厳を認めるところから生まれる。ルールはプレーヤーの尊厳を認め、信頼するところから出発するのである。
1740年代に13ヵ条の成文ルールが生まれてから、否ゴルフが生まれてからこの方、プ レーヤー各自の判断が信頼されてきた。テレビが発達した、時代が変わった・・・・・といってこの信頼を裏切るわけにはいかない。やはりゴルフの住み家はプレーヤーの思いやり のある心以外にないのである。
主な関連ルール
*スコアカードのつけ方
規則第38条 ストロークプレーのスコア
規則第11条1項 反則の時効など
*マーカー
用語の定義18
引用
スコアを縮める秘訣 ゴルフルールの心 金田武明
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